平成24年4月3日
東関部屋と友綱部屋が出稽古に来る。若松部屋時代にはよく三部屋合同稽古を行なっていて、それぞれの稽古場で順番に行なっていたが、合併して高砂部屋になってからは縁遠くなっていたので久しぶりの高砂部屋での稽古。引退相撲の準備で忙しそうな元魁皇の浅香山親方も顔を見せる。 三部屋合同といっても、それぞれ部屋の力士数が減り、巡業にも何人か出ていて、三部屋合わせてようやく土俵を囲めるほどの力士数。10年ほど前の芋を洗うような賑やかな稽古場を知る浅香山親方にとっては、いささか寂しい想いも感じる稽古場であろう。
平成24年4月4日
友綱部屋も東関部屋も近々合併を控えている。友綱部屋は今月末に大島部屋と、東関部屋は年末から来年にかけて中村部屋と合併する。それぞれ力士数や裏方の数が倍増することになる。合併で人数が増え活気が出るのは喜ばしいことなのだが、困るのは地方場所の宿舎である。とくに友綱部屋の場合は関取が三人増え、行司、呼出し、床山も資格者(十両格以上)が多いので、部屋の確保に頭を悩ませることであろう。部屋による習慣や作法の細かい違いもあり、現場が落ち着くまでにはかなり時間がかかる。
平成24年4月5日
昭和58年に入門した時は部屋の数は37であった。それから年々増え続け平成16年には最多55部屋になった。その後、部屋持ちの師匠となる条件が厳しくなったこともあって独立が減り、消滅する部屋の数分だけ部屋数は減っていき現在は48部屋。今月大島部屋が消滅するが、木瀬部屋が復活するので数に変わりない。しかし今後も減少傾向はつづくであろう。
平成24年4月6日
相撲部屋の数の推移は、昭和24、5年が23部屋と一番少なくて、以後年々増えていく。戦前は今と変わらず多くて昭和17年は48部屋もある。この頃は、4,5人の家族的な小部屋も多かったはずで稽古場を持たずに、稽古は一門の本家でという部屋もあったよう。終戦直後の混乱期、そういう小部屋は食料の確保にも苦労したはずで、戦後2,3年での部屋数激減につながるのであろう。
平成24年4月10日
相撲部屋ができたのはいつ頃からのことなのだろう?江戸末期には稽古場をもった相撲部屋が存在した。以前にも紹介したように思うが、剣術の千葉周作が記している。司馬遼太郎『街道をゆく36』に出てくる。『千葉周作遺稿』によると、千葉周作は相撲が好きで稽古場もよくのぞいたという。相撲とりたちは、稽古前に食事をとるが、中程度の椀に薄い粥二杯より以上は食べないということを知った。「人目を忍びて多く食せしものは、相撲稽古にかかりて、息合ひ早く弱り、中々人並の稽古できかぬるものなり」それを剣術の稽古にも活かした。
平成24年4月11日
歌舞伎の演目で有名な『め組の喧嘩』は文化2年(1805)に実際にあった町火消しと力士の喧嘩をもとにつくられた話で、幕末の千葉周作のときより少し前になる。この乱闘事件には部屋から力士10数人も参加したようで、1800年初頭には相撲部屋で一緒に生活していたことがわかる。いろいろ調べてみると三田村鳶魚『相撲の話』に出ていた。相撲部屋ができたのは、8代将軍吉宗の享保(1716~1735)の頃のことだそうである。
平成24年4月13日
今年も両国にぎわい祭りが4月28日(土)29日(日)の二日間行なわれます。今年で第10回となる両国にぎわい祭り、28日(土)午前10時半からは国技館土俵にて高砂一門力士による公開稽古が行なわれます。そのあと関取と子供たちの稽古、親方衆(九重、八角、高砂、錦戸、佐ノ山)によるトークショー、利樹之丞の太鼓打分け実演、小錦さんトークショーなど盛り沢山の企画になっています。29日(日)は恒例の横綱審議委員会一般公開稽古も行なわれます。人気のちゃんこミュージアム(ちゃんこ屋各店の競演)もあります。
平成24年4月14日
新弟子で入門すると半年間は相撲教習所に通う。相撲教習所は国技館の中にあり、毎朝6時過ぎに部屋を出て、着物に帯を締め、慣れない下駄でカランコロンおよそ30分の道程を通う。午前7時からマワシを締めて実技の授業があり、終わると机に座っての講義。掃除して食事を摂り帰ってくる。授業は月曜から金曜まで。土曜日は教習所が休みなので部屋での稽古。教習所が始まって2週間、朝剣、朝雄大、共に休みなく通っている。
平成24年4月17日
元呼出し永男(のりお)さんが亡くなられた。享年82歳。永男さんは相撲甚句作りの名人で、これまでに作詞した甚句は1000近くにもなるという。戦後すぐに二所ノ関部屋へ入門しておよそ半世紀の呼出し稼業。太鼓の名手でもあり、NHK大相撲中継で流れる太鼓の音は永男さんの太鼓であった。また現在の相撲教習所の校歌とでもいうべき相撲錬成歌も永男さんの作詞である。平成7年3月場所で定年の後も全国相撲甚句会をつくり甚句の普及に東奔西走していた。心よりご冥福をお祈りいたします。
平成24年4月18日
昔ある宴席で永男さんと同席させてもらったことがあり、そのとき相撲錬成歌の話を聞かせていただいた。元横綱栃錦の春日野理事長から直々に作成を依頼されたという。作詞して理事長のところに持っていくと、ざっと目を通しだけで机の中にしまわれるらしい。「うん、まだあるだろう?もっと考えてこいよ」そんなことが何度か続き、これしかないという自信作をもっていったが、「うん」とうなづいただけで、机の中にしまわれてしまう。最終的にこの詩に曲をつけてもらいテープに吹き込んで持っていったら、ようやく「おお、なかなかいいじゃないか」とゴーサインが出たという。この苦心の相撲錬成歌は今も毎日相撲教習所で授業の終わりに歌われている。晴れ晴れと心に響く名作である。
平成24年4月19日
呼出し永男さんには平成6年マガジンハウスから出版した『相撲甚句・有情』という著作がある。人情味溢れる朴訥な永男さんの語り口そのままの文章で、入門してから48年間の呼出し人生の泣き笑い裏話や甚句の話が、相撲甚句の歌詞を挟みながらつづられている。しんみりホロリとした人情と ユーモアが織り重なる相撲甚句の世界そのものと永男さんの人生が重なっている。
平成24年4月21日
4月28日(土)両国にぎわい祭りの高砂一門連合稽古、他の催しの詳細も決まりました。『高砂一門 感謝の集い』と銘うって、午前10時半から12時まで稽古の後「関取と子供の稽古」つづいて九重・八角・高砂・錦戸・佐ノ山親方による「親片トークショー」(以上は土俵で)。その後エントランスホールにて元北勝力の谷川親方の「大銀杏髪結い実演」中村親方・元高見山・KONISIKIによる「対談」呼出し利樹之丞による「櫓太鼓実演」。KONISIKIさんの歌とトークショー。その他屋外テントなどにてサイン入りポスターの配布や握手、写真会、髪結い(ちょん髷)の公開なども行なっています。
平成24年4月23日
5月場所新番付発表。朝赤龍は東前頭14枚目。朝弁慶の負越しで幕下が一人もいなくなってしまったが、3月場所初土俵を踏んだ踏んだ二人の四股名が初めて番付に載っている。朝剣は西序ノ口15枚目、朝雄大は西序ノ口の一番下21枚目。相談役武蔵川親方と放駒親方の名前のすぐ横にある。
平成24年4月24日
5月場所に向けての稽古始め。7時に稽古開始で8時半より土俵祭。今場所は従来通り木村朝之助祭主で安心して見られる。相撲教習所の授業は番付発表前までなので、今日から朝剣、朝雄大の新弟子二人も部屋での稽古に加わる。三月場所の稽古場ではまだ半分お客さん扱いであったが、そろそろ本格的な稽古が始まってゆく。三月は、休み休みしか踏めなかった四股もようやくつづけて踏めるようにはなってきた。二人増えただけだが、稽古場がずいぶん賑わいで見える。
平成24年4月26日
宮城県石巻の石巻市立牡鹿中学校の3年生20名が稽古見学。生徒に修学旅行のとき東京で行きたいところとアンケートをとったら、相撲部屋の朝稽古という声が多かったらしく地元石巻出身の朝天舞の母親を通じて話があり、今朝の見学となった。泥まみれ汗まみれで何度もぶつかっていく力士の姿を見て感じるものは大きかったようで、真剣なまなざしで稽古に見入っていた。稽古後ちゃんこを食べ、地元の先輩朝天舞と記念撮影。先輩の頑張りを胸に、これからそれぞれの道で地元の復興の力になってもらいたい。
平成24年4月27日
朝雄大は180cm、100kgと15歳にしては立派な体格だが、小・中学校と運動経験はまったくない。昨年夏、初めて夏合宿に参加したときには稽古中まっすぐ立っていられなくて、しばしば壁にもたれかかっていた。半分お客さん扱いだった3月場所を終え、相撲教習所に通い、部屋での稽古でも何度か悲鳴を上げたり涙をみせたりしながらも2ヶ月間休まずつづけてきた。ようやく稽古中も壁にもたれずに立っていられるようになり、挨拶もできるようになってきた。まだまだ力士への道程は長いが。それも大相撲ならではのことである。
平成24年4月28日
両国にぎわい祭り。国技館会場は、「高砂一門感謝の集い」で高砂一門の連合稽古。高砂、九重、八角、中村、錦戸、東関部屋の力士が100人近く本土俵の周りを囲み、序ノ口・序二段、三段目・幕下、関取衆と申し合い稽古を行なっていく。10時から稽古開始して10時半前にお客さんを入場させると、用意された正面と西側の桝席はあっという間にほぼ満席となった。12時からは子供たちとの稽古で沸き、親方5人(九重、八角、高砂、錦戸、佐ノ山)によるトークショーも元NHKアナウンサー石橋さんの司会のもと、稽古の話や今だから言える話などお客さんを大いに楽しませた。明日は横綱審議委員会総見稽古。
平成24年4月29日
申し合い稽古は、勝った力士に次の相手の指名権がある。そこで、勝負が決まると勝った力士に周りで見ていた力士達がいっせいに群がる。「ごっつぁんです!」「ごっちゃんし!」「ごっつぁん!」自分を買ってもらおうと(指名してもらうこと)必死で自分の存在を売り込む。初めて稽古を見る人にとっては大声で叫びながら力士たちが群がっていく光景が面白いらしく、「あれ何しているんだろう?」と妙に受けながら不思議がっている人が多い。勝負の決まりどころを見極め、素早く移動して、他人を押しのけ積極的にいくことが、心身の鍛錬にもつながる。これを「揉みにいく」という。
平成24年4月30日
一昨日の連合稽古や巡業の稽古などでは、2,30人が一同に土俵を囲むから、やる気がないと一番も稽古できなくなってしまう。やる気があって積極的に声を出して揉みに行っても、勝負が決まった場所の近くにいないと買ってもらえない。目の前で勝負が決まっても、声の出し方、足の出し方がワンテンポ遅れると横から割り込まれてしまう。土俵内の力士の相撲っぷりや強弱などを予想し、感を研ぎ澄ませ、一歩目を早くして、勝ち力士の顔の前に自分の顔を持っていくことが必要になる。買ってもらって勝ち続けさえすれば何十番でも稽古ができる。
平成24年5月1日
強くなっていくことは難しい。もちろん稽古しなければ強くならないが、稽古量と強さが比例するわけではない。強くなっていくときも、階段を一段一段登るように強くなるときもあるが、ある日突然強くなるときもある。これを「化ける」という。しかしながら大半は、稽古をやってもやっても変わらず、一進一退をくり返し、そのうち年齢と共に衰えていく。心技体というように、強さは、意識や気持ち、技術、肉体的強さが絡み合って成り立っている。肉体的な強さは徐々にしか変わらないが、大勢の観客の前での一番が、心を大きく変えることがある。
平成24年5月2日
朝龍峰と朝興貴は三年前に入門したが、その後新弟子が入らず、三年間一番下で下働きを余儀なくされてきた。今年ようやく2人の新弟子が入門して多々の雑用からも少しは解放され、時には指導的な立場にも立つようになった。今まで稽古場であまり めが出なかった朝龍峰だが、胸を出せる新弟子がはいってきたことで自信もついてきたようで、今まで分の悪かった朝興貴とも五分以上の相撲を取るようになってきた。これも、心の持ちようが強さをつくっていく一例である。
平成24年5月3日
逆に朝興貴のほうは最近精彩を欠いている。もともと草食系で、新弟子への指導的なことも苦手なタイプで、「ちゃんと教えてやらんか」と怒られることも多くなった。怪我のせいもあるのだが、今まで圧倒していた朝龍峰や朝奄美にも分が悪くなり、その分ぶつかり稽古でドロドロになっている。肉体的にはいいものをもっているだけに今は我慢の時期である。飯の時にはみせる積極性が稽古の時にも表面に出てくればいいのだが。強くなっていき方も、人によっていろいろな波がある。
平成24年5月4日
突っ張りを覚えるのは難しい。現役時代何度か覚えようと試みたが、つい押してしまい、ものにはならなかった。突き押し相撲というが、「突き」と「押し」は相手との間合いが全然違う。「突っ張る」には、立合いで相手を突き放して間合いを開けなければならない。肘が伸びて相手との距離がある程度できないと突っ張れない。逆に押し相撲は、相手とくっつかないと押せない。どちらかというと、四つ相撲の間合いに近いくらいである。最近まったく突っ張れなかった朝興貴、ようやく立合いの突き放しが出て、久しぶりに何番か突っ張りで相手を土俵の外に出すことができた。初日まであと2日。
平成24年5月5日
午前10時より土俵祭。最近は三役以上の力士も羽織袴で土俵下に控え、木村庄之助祭主の土俵祭を見守る。一般公開もされているので、桝席には一般の大相撲ファンの姿も。土俵祭終了後触れ太鼓が土俵の周りをまわり街へと繰り出す。また国技館玄関横では初場所優勝の大関把瑠都と春場所優勝の横綱白鵬に優勝額の贈呈式が行なわれる。優勝額は高さ3mあまり横2mあまりの大きさで白黒写真を実物の1,5倍ほどに引き伸ばして上から油絵具で彩色する。昭和26年の照國以来60年余り、佐藤寿々江さんが一人で描きつづけている。
平成24年5月6日
新緑に風薫る五月場所初日。午前8時20分より序ノ口の取組が始まる。昨日の土俵祭で清められた土俵上で初めて相撲を取るのは序ノ口21枚目の朝雄大。五月場所は朝雄大に始まり白鵬で終わる。その朝雄大、場所前の稽古で頭がわき(ぶつかりで内出血して腫れ)血が目に下りてきて片目がふさがってしまった(新弟子にはよくあることだが)。今日の相撲でも片目(初白星)があかなかったが、初日6勝2敗と好調なスタートの五月場所高砂部屋。
平成24年5月8日
脇が開いてしまってしまって相手にすぐ差されてしまうことを脇が甘いという。脇が甘くて相手に双差しに(両腕とも差されてしまう)なられると、重心が上がり残せない(踏ん張れない)。逆に相手の方は中に入って腰を落とせるから楽に攻めることができる。入門4年目の朝龍峰、馬力はそこそこついてきたものの脇が甘く腰が引けてしまう欠点があり番付を上げられずにいるが、だんだん足が前にでるようになってきた。足が前に出れば腰も前に入り、たとえ差されてもおっつけて前に攻められるようになる。今日も前に出る相撲で2連勝。朝天舞、朝乃土佐も2連勝。
平成24年5月10日
今日勝って3勝目の幕内朝赤龍、初日から連日懸賞がかかっている。東大阪を拠点とする大阪バス㈱という会社で、全国にグループ会社を展開する社長が師匠と昔から懇意にしているご縁で、今場所15日間朝赤龍の取組に懸賞をかけて下さることになった。今日で3本目の懸賞獲得。応援してくれる社長のためにも最低10本は懸賞金を獲得したいところである。
平成24年5月11日
今場所初めて番付に名前が載った朝剣、中学時代は剣道部で活躍していた。ただ体が大きかったので、時折川口市(埼玉県)の相撲大会にも出場したことがある。入門すると通う相撲教習所は、入門者を強い順からABCと分けて稽古させているが、朝剣は中級者とでもいうべきB班で稽古しているという。運動神経もそこそこあり、頭からもしっかり当たれて稽古場ではそれなりの力をみせているが、本場所ではまだ緊張感が強いらしく、一番弱いC班の同期生にも負けてしまっていた。今日ようやく序ノ口での記念すべき初白星。この1勝で少しは緊張感もほぐれ力を発揮してくれることであろう。これから何年間、いくつの白星を積み重ねていけるか。
平成24年5月12日
朝興貴、朝龍峰の二人は入門3年を過ぎ4年目に突入している。少しずつ力をつけてきたとはいえ、稽古場で毎日見ている限りには兄弟子たちにはまだまだ歯が立たず、成長度がわかりにくい。3年ぶりに新弟子が入ってきて胸を出す立場になってみると、新弟子に思い切り当たられてもしっかり受け止め、突き放しと力の違いを見せられるようになった。下ができると傍目に見ても力がついたのがわかるし、本人の自信にもなるのであろう。共に3連勝と勝越しに王手をかけていたが、朝龍峰今場所初黒星で第1号の勝越しならず。
平成24年5月13日
五月晴れの中日8日目。新緑を吹き抜ける薫風が心地よい。お相撲さんにとっては五月、七月、九月が浴衣の季節だが、七月・九月は浴衣には暑過ぎ、着て歩くだけで汗だくになってしまう。五月場所こそが浴衣にふさわしい場所だといえる。稽古場でもさわやかないい汗をかくことができ、稽古にも一番いい季節である。入門8年目、初日から2連敗と弟弟子の後塵を拝していた朝奄美、2勝2敗と星を五分に戻す。朝奄美は季節に関係なく真冬でも四股を10回踏んだだけで汗をかくが。朝興貴、給金相撲(勝越しのかかった相撲)を落とし勝越しならず。
平成24年5月14日
宮城県石巻出身の朝天舞。今場所は三段目3枚目と勝ち越せば幕下復帰が確実な番付。今年の正月には久しぶりに帰省したが、家族も少しずつ日常を取り戻しつつあるものの復興への道程はまだまだ遥か遠いという。稽古に励み番付をどんどん上げていくことが、家族への、石巻への大きな支援になる。今日は快心の相撲で3勝目。場所後には、力士数名で石巻の猫島などへの慰問も予定されているので、あと一番、幕下復帰を決めて故郷に錦を飾りたいところである。
平成24年5月15日
朝から雨の五月場所10日目。いつもは爽やかに旗めいている力士幟も雨をすいこみ水垂れて重たそう。幟を上げられるのは十両以上の関取のみだが、呼出しや行司も十両格以上になると幟を上げることが出来る。入門20年目を迎える呼出し邦夫、今場所両国駅から国技館へと向かう目立つ場所に 幟が上がっている。高校の同級生4人が連名で20周年記念にと上げてくれた幟だそう。 序二段30枚目の朝興貴、今場所第1号の勝越し。三段目復帰にはあと1勝しなければならない。
平成24年5月16日
裏方である行司、呼出し、床山にも、力士とおなじように階級がある。床山は見習いから始まり五等、四等、・・・一等、特等と昇格していくが、行司は、力士と同じように序ノ口格から始まり、序二段格、三段目格、幕下格と昇格していき十両格になると資格者となる。力士でいえば関取待遇である。呼出しも、同様に序ノ口から始まり十両呼出しになると資格者になる。資格者になると一日2番ずつ土俵に上がるが、今場所は、呼出し邦夫の呼び上げで力士が土俵に上がり、木村朝之助が相撲を捌く、高砂部屋コンビの姿が十両始まってすぐの取組で見られる。
平成24年5月17日
「十両格行司」「十両呼出し」と一般的に使われるが、「十両」は通称で、正式には「十枚目格行司」「十枚目呼出し」である。もちろん力士も「十枚目」が正式な地位名になる。幕末から明治にかけて幕下10枚目までを関取待遇として十両の給金を出したことによるという。序二段朝龍峰、朝奄美勝越し。三段目でも朝天舞、朝弁慶が勝越し。三段目3枚目の朝天舞は幕下復帰が確実。朝弁慶はあと一番勝てば幕下復帰の可能性も出てくる。
平成24年5月19日
スカイツリーオープンまであと3日と迫り地元墨田区は祝賀モードで沸き立っている。墨田区本所3丁目の高砂部屋からも4階屋上に出ればその偉容が目に飛び込んでくるし、国技館からもよく見える。今日明日は、地元町会による神輿や出店、コンサートなど盛りだくさんの前祝いイベントで22日の開業を待つ。墨田区が、お江戸の、日本の、注目を集めている。朝龍峰5勝目。朝興貴5勝目ならず三段目復帰はアゴ。大子錦、朝乃土佐も勝越し。
平成24年5月20日
墨田区は、本所区と向島区が合併して墨田区となった。昭和22年のことである。本所一帯は、もともと低湿地で人家も少なかったらしいが、江戸時代の振袖火事とよばれた明暦の大火(1657)の教訓で、新たに屋敷地をつくるために開削され土を盛り上げ街が造成された。死者10万人を超える明暦の大火の死者を埋葬するため回向院ができ、火事の4年後には両国橋が架かり、橋の両側に火除地として広小路ができて芝居小屋、見世物小屋で賑わい、回向院境内での大相撲興業につながった。両国は江戸文化の中心地であった。朝弁慶5勝目。幕下復帰の可能性が高まった。すでに幕下復帰を決めている朝天舞も5勝目。
平成24年5月21日
旭天鵬の劇的な優勝で幕を閉じた五月場所千秋楽。花道で待つ付人や関係者の涙でも感じられるように、今場所前に消滅した大島部屋のリーダーとして人望厚く、温厚な人柄は横綱朝青龍も兄のように慕っていた。関り合っている周りの人々が心から祝福する優勝であった。朝天舞、朝弁慶、朝乃丈、朝興貴の4力士、宮城県石巻の網地(あじ)島を訪問。ホームの慰問や、生活センターで地元の人たちと技の紹介、相撲甚句、チャンコなどで交流。
平成24年5月22日
午前7時半網地島を出港して隣の田代島へ。田代島は猫島として有名な島で、人よりも猫のほうが多く住んでいるそう。もっとも全島民80名ほどだそうで、港からほどちかい開発センターでちゃんこをつくりマワシ姿の4力士が、四股や股割り、技を披露。島民の半数近くになる30名あまりの方が集まり、お相撲さんに挑戦したり質問や写真撮影などで楽しく過ごす。終了後モーターボートで石巻の鮎川港に渡り、老人ホームを二か所慰問。「江戸の大関より、おらがくにの三段目」という通り、石巻出身の朝天舞には大きな拍手が送られ、5勝2敗で幕下復帰の活躍に元気な笑顔が咲きほこっていた。
平成24年5月27日
大関魁皇引退浅香山襲名披露大相撲。平成の大相撲界を背負った名大関の引退相撲である。若松部屋の頃は、友綱部屋、宮城野部屋と合同で稽古をしていたので、17,8歳の頃から稽古場でよく見ていたが、幕下のころからスケールの大きさは際立つものがあった。優勝を5回しながらも横綱に上がれなかったが、その後の満身創痍の中でのひたむきな土俵態度や1047勝という通算最多勝利数などは、名大関でいたからこそであろう。先日国技館で挨拶を交わしたが、飾らない人柄と謙虚な態度は親方となった今も変わらない。若い頃の豪放な酒乱ぶりも魅力ではあったが。
平成24年5月28日
そういえばモンゴルでも魁皇人気は絶大であった。2006年に高砂部屋モンゴル合宿をおこなったときに行ったお店でも朝青龍とならんで魁皇のブロンズ像(一番下右写真)が飾られていて、「なぜ魁皇?」と尋ねたら「男らしくてかっこいい!」とほめちぎっていた。モンゴル巡業でも土俵に上がると大歓声に包まれ、握手攻め写真攻めとすごかったよう。今回の引退相撲も話題になっているのかも。今日から名古屋場所に向けての稽古再開。
平成24年5月30日
元々隅田川東岸本所辺り(現墨田区一帯)は下総の国であった。寛文元年(1661年)橋が架けられ江戸市中となった。武蔵(江戸)の国と下総の国をつなぐから両国橋と呼ばれるようになったそうで、両国橋ができて町になった。深川はもう少し早く、江戸初期三代将軍家光の頃に開かれたらしい。富岡八幡宮が建てられたことによるという。富岡八幡宮で初めて勧進相撲が行なわれたのが貞享元年(1684年)。その頃から隅田川東岸での大相撲の歴史が始まった。
平成24年5月31日
三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)は明治3年の生まれで、江戸文化研究で知られ「江戸学の祖」とも呼ばれる。中公文庫から出版の鳶魚江戸文庫4は「相撲の話」で、深川八幡の相撲についても詳しい。江戸時代度々「相撲禁止令」が出たが、24年ぶりに許可された深川八幡での勧進相撲は、5代将軍綱吉の意向が大きかったという。綱吉は、亡父3代将軍家光が造営した富岡八幡宮や深川の繁栄を望み、永代橋を架け勧進相撲を許した。以後100年近く、年2場所春秋の相撲興業が深川富岡八幡宮境内で行なわれた。
平成24年6月1日
もっとも本場所が深川八幡と定まっていたわけではなく、芝神明、御蔵前八幡、両国回向院、茅場町薬師などでも行なわれていた。天保4年(1833年)冬場所から定場所が回向院境内にほぼ落ち着いたという。何度もの大火のため火除地として両国橋のたもとに広小路ができ、芝居や歌舞伎、寄席、見世物小屋など江戸の娯楽がすべて両国に集まった。自然に相撲も両国回向院境内に定着した。当時の両国の賑わいぶりは、すさまじいものがあったそう。
平成24年6月2日
以前蔵前に住んでいた。山の手からみたら蔵前も両国も同じ下町なのだと思うが、近いだけに微妙なムラ意識がある。蔵前の地の人は、隅田川東岸を「川向こう」と呼ぶ。声高に言うわけではないが、言葉の端々に何となく滲みでるものがある。確かに蔵前に住んでいたときは、現在の両国緑町よりも都会を感じることもしばしばあった。蔵前も両国も、相撲に関わりが深い。江戸勧進相撲は「御蔵前神社」でも「両国回向院」でも行なわれたし、国技館は明治42年両国に開館され、戦後蔵前に移り、そしていま再び両国に戻っている。
平成24年6月3日
毎年6月に近畿大学校友会東京支部である一木会のちゃんこ会が高砂部屋で行なわれるのが定例になっている。今年も6月1日に行なわれ、20数名の近畿大学卒業生の方々がお見えになられた。近畿大学は、いわずと知れた師匠の母校。学生数3万人超、卒業生45万人超を誇るマンモス大学で、大関朝潮の現役時代からたくさんのOBの方に支えていただいている。卒業生には大相撲はもちろんプロ野球選手も多いし、水泳の寺川綾選手、俳優の赤井英和やシャ乱Q、故人となったがプロレスの吉村道明と、有名人も多数輩出している。
平成24年6月4日
近畿大学相撲部の歴史は古い。大正14年創立(旧大阪専門学校時代)だから今年で87年を迎え、これまで大相撲にも数多くの力士を送り込んでいる。大関朝潮、横綱旭富士を筆頭に、幕内力士として武蔵川部屋大輝煌(だいきこう)、高砂部屋朝乃若・朝乃翔、伊勢ケ濱部屋宝富士。十両に阿武松部屋古市、八角部屋大岩戸、伊勢ケ濱部屋誉富士(ほまれふじ)、木瀬部屋徳勝龍(とくしょうりゅう)とつづく。幕下以下も含めると、高砂部屋朝陽丸(あさひまる)、北の湖部屋杉田・吐合、木瀬部屋濱口と合計14名が入門している。
平成24年6月5日
学生横綱と呼ばれる全国学生相撲選手権大会の優勝者を近大相撲部は6人(7回)輩出している。昭和24年の吉村道明(のちプロレスラー)、昭和51年・52年の長岡末広(現高砂親方)、昭和56年山崎幸一、平成元年林正人(元大輝煌)、平成15年上林義之(現大岩戸)、平成16年吐合明文(現吐合)。またアマチュア日本一を決める全日本相撲選手権大会では、昭和51年・52年と2連覇の長岡末広、平成3年の伊東勝人(現近大相撲部監督)、平成13年三好正人(元朝陽丸)の三人が、アマチュア日本一天皇杯の栄冠を抱いている。
平成24年6月6日
回転エビ固めの吉村道明といえば、往年のプロレスファンには懐かしい響きであろう。吉村道明氏は、大正15年岐阜市の生まれで14歳で入隊して海軍相撲で鍛えたという。復員後近畿大学に入学し、1年生で学生横綱となった。卒業後全日本プロレスに入門、力道山らと共にプロレスの黎明期を支えた。いつも朗らかで、師匠のことを「大」と呼び、師匠も「先輩」と慕い、若松部屋の頃はよく部屋に顔をだしてくれていた。来られると座が華やかになり、高齢となられてもスターであった。平成15年76歳で故人となられた。今でも近大相撲部道場で、初代総長と横綱姿の吉村氏の大きな油絵が、学生たちの稽古を見守っている。
平成24年6月7日
近畿大学相撲部の歴史を語るうえで、中興の祖というべき祷監督の名は外せない。祷厚己氏は、奄美加計呂麻島の生まれで地元の大島高校から近畿大学に入学。卒業後近畿大学職員となり助監督を経て監督となった。現師匠の恩師であり、祷監督最後の弟子が朝乃若、朝乃翔である。2年連続学生・アマ両横綱長岡の現師匠が高砂部屋入門となったのも、同じ奄美徳之島出身の元横綱朝潮高砂親方と祷監督の縁に由るところが大きい。近寄りがたい威厳があったが、人情味溢れ世話好きな監督でもあった。
平成24年6月8日
祷監督には個人的にもずいぶんお世話になった。琉球大学相撲部を立ち上げて、大阪での試合に参加した時のこと。「君は徳之島だそうだな」「俺も奄美だから、今度から試合で大阪に出てくるときは近大に泊まれ」と声をかけていただいた。それから琉球大学相撲部は、11月の全国選手権と6月の西日本選手権には近大クラブセンターに宿泊、朝稽古に参加させてもらい、ちゃんこをご馳走になり、相撲部のバスで一緒に試合会場に乗り込むという厚遇に甘えさせていただいた。今日から茨城下妻市大宝八幡宮での合宿。今年で10周年となる。今年も錦戸部屋との合同合宿。
平成24年6月9日
あいにくの雨の中、第2回わんぱく相撲下妻場所。小学校4年生から6年生までの30人のわんぱく力士が集まり、各学年ごとの個人戦と、学校対抗の団体戦を競う。相撲は初体験の子もいるが、柔道に親しんでいる子は多く、豪快な投げ技や、足の取り合い掛け合いと熱戦がつづく。くるくると目まぐるしく動き土俵際もつれる大相撲に普段より難しい行司捌きに木村悟志差し違えまで。表彰式のあと、応援に来ていた子供たち(女の子も)も裸足で土俵にあがり、お相撲さんに挑戦。肌寒いほどの気候だったが、ワイワイキャーキャーと熱気あふれる土俵となった。明日から三日間は合同稽古。
平成24年6月10日
茨城県下妻市大宝八幡宮高砂部屋・錦戸部屋合同合宿稽古初日。昨年震災の影響で中止になったので、2年ぶりの大宝の方々との再会。毎年ちゃんこ作りを手伝ってくれる大宝レディーズ。今年は半減して2人になったが、“清ちゃん節”(6月9日)は健在で笑いの絶えない賑やかなちゃんこ作りがつづく。東京へ出張に来た九州場所でおなじみのゴーヤーマンが顔を見せ、地元日立で就職している元塙乃里も登場と、飛び入りゲストや懐かしい顔との再会も合宿ならではのこと。
平成24年6月12日
お世話になっている大宝八幡宮は701年(大宝元年)創建の古社で、平将門や源頼朝にも縁の歴史があり、祭りや年中行事など地域とのつながりも深い。合宿最終日。稽古とちゃんこ、掃除の後、見送りの奉納相撲保存会役員の方々やおばちゃんたち、園児に見送られ午後2時前バスにて八幡さまを後にする。
平成24年6月13日
大宝八幡宮は年中行事としてのお祭りが多い。高砂部屋合宿も、お祭りごとの一つに入るであろう。お祭りごとは、楽しみが大きい半面、実施するには、人集めや準備、まとめ役と難儀な面も多い。大宝のあらゆるお祭ごとは、大宝八幡宮奉納相撲保存会の入江会長が神輿の中心となって地域をまとめている。その入江会長、今年も連日の歓迎会主催でお疲れモードだったが、最後の日も早朝から稽古を見守り、チャンコに缶ビールで別れを惜しみ、動き出すバスに手を振る。祭りの後の寂しさに包まれるときでもある。
平成24年6月14日
朝刊に「日本最古の木簡」の記事が出ていたが、「大宝律令」以前の木簡であるという。大宝八幡宮の大宝は、「大宝律令」の大宝であるから、その歴史は古い。境内一帯がもともと沼地に囲まれた台地であったらしく、下妻氏の大宝城が築かれ、南北朝の争乱で激戦が繰り広げられたという。 本殿と社務所の間を通って奥へ進むとアジサイ苑になっているが、もともとは大宝城址の土塁保全のために植えたものだそうで、現在は300種4000株のアジサイが咲きほこる散歩道になっている。合宿時にはまだ2,3分の咲き具合であったから、6月24日のあじさい祭りの頃は、ちょうど見頃であろう。
平成24年6月15日
高砂部屋一階稽古場の上り座敷の横には、置物が何点か飾られている。なかにビーズ飾りの兜や必勝高砂部屋の賑やかな祝樽などもある。江戸川区平井の大ちゃんクラブ(師匠が現役時代からの応援団)村田さんの奥さんの作品で、番付表をうまく活用して見事な出来栄えである。その村田さんの奥さんが「番付表で折った折り鶴のスカイツリー」を作り、6月8日付の“東都よみうり”誌で紹介されている。江戸川の喫茶室経営女性が制作で、平井で24年間「喫茶室サリー」を営む村田良子さんとある。「相撲界の盛り上がりや日本の復興を願って」とのコメントも。夫婦共々高砂部屋とは30年来のお付き合いになる。
平成24年6月16日
本所高砂会の塩川会長が亡くなられた。本所高砂会は、地元町会の高砂部屋ファンクラブ的な集まりで、部屋のある本所3丁目や2丁目を中心に会員を募り、年1回の懇親会や稽古見学ちゃんこ会などで交流を深めている。その立ち上げの中心となっていたのが塩川会長で、高砂l部屋が本所に来た平成3年以来、90歳となられたこの5月場所まで20年あまり、高砂部屋を応援しつづけていただいた。心よりご冥福をお祈りいたします。
平成24年6月17日
先発隊6人(大子錦、朝天舞、朝乃丈、朝弁慶、朝興貴、松田マネージャー)蟹江龍照院入り。部屋から荷物を出し、畳を敷き、バルサン焚いて、一年間のホコリと汚れを洗い流す。ガス水道は大丈夫なのだが、手違いで電気がまだ通ってなく、夜になると真っ暗な宿舎。先発隊ではたまにあることだが、電気のない生活があまり経験のない朝乃丈や朝興貴は、こぼしまくり。幸い今宵は名古屋も涼しいので、まだ8時半だが寝るしかない。
平成24年6月18日
電気のない生活を一晩過ごすと朝の光がありがたい。5時には目が覚めてしまった。おすもうさんはいつもと変わらず寝ているけど・・・。幸い朝からお天気にも恵まれて掃除や荷物の片付けも順調にすすむ。夕方には待望の電気開通。ブーブーやかましかった朝乃丈も、にっこりおとなしくなった。文明のありがたさを身にしみたことであろう。
平成24年6月19日
台風接近で朝からの雨がつづき先発隊の仕事も小休止。一年ぶりに蟹江龍照院宿舎に入ると、昨夏の台風で宿舎の2つのプレハブをつないでいる屋根がところどころ剥がされている。台風直撃だとさらに危険になるため、急きょ残った屋根も剥がしてもらい台風に備える。宿舎も築20年近くなるので毎年あちらこちらほころびも出てくる。各部屋の土俵築のため、呼出し利樹之丞と邦夫も蟹江入り。
平成24年6月20日
台風一過。雨があがり、冷蔵庫やちゃんこ道具などの洗いもの作業。
平成24年6月22日
先発中の早朝、宿舎に入門志願者が訪ねてきた。蟹江の隣町の若者で、小さい頃から相撲が好きで高砂部屋の稽古もよく見学していたという。立派な体格とはいえないが、何とか新弟子検査の基準(167cm、67kg)は満たしている。ちょうど朝のトレーニンング中だった朝天舞が応対したが、「悩んだ挙句、仕事も彼女も捨てて入門を決意した」という。その心意気や大いに良しとしたいが、肝心な点をひとつ見落としていた。この3月で23歳になったという。新弟子検査を受検出来るのは23歳未満で、23歳の誕生日が来た時点で受検資格を失ってしまう。未だ未練を残しているらしく、今朝もお茶を差入れして、先発隊の掃除など手伝って帰った。
平成24年6月23日
もちろん自分をも含めて言っているのだが、志願兵には変わりもんが多い。もともと相撲が好きで、力士に憧れ、志願して入門してくる人間は、意外と少ない。好きで入門する人間は長続きするかといえば、そうでもない場合が多い。体が小さい人間が多いというのもあるが、変わりもんで団体生活になじめない場合もある。相撲が好きだけで入ってくると、理想と現実のギャップにさいなまれ、あっけなくやめてしまう場合も多々ある。
平成24年6月24日
逆に、相撲取りになんかなりたくなかったのに、体が大きかったとか、たまたま相撲大会に出たら優勝しちゃったとかで周りからすすめられ、断り切れずに入門してくる力士のほうが長持ちして頑張ったりする例も、ままある。そういう場合は、入門時に盛大に壮行会など開いてもらっているから、親や恩師の顔をつぶせない気持ちが、彼を引き止めてくれる。志願兵の場合そういうしがらみはないから、嫌なことがあると自分の判断だけでスッと逃げ出してしまうことがある。残り番の力士も名古屋入り。明日が番付発表。
平成24年6月25日
名古屋場所番付発表。朝赤龍、平成15年1月場所以来の十両。高砂部屋から幕内力士が消えるのは、平成13年3月場所以来。この場所は、幕内闘牙が交通事故による謹慎処分で十両陥落。明治11年以来122年つづいていた高砂部屋の幕内力士が途絶えた。ただ、十両以上の関取は明治11年以来134年連続と記録を更新中。朝天舞、朝弁慶の二人幕下復帰。早く二人に上がってもらわないと・・・。
平成24年6月26日
幕内も十両も同じ関取だが、階級社会だけに違いはある。まず給料が違う。幕内130万9千円に対し十両は103万6千円。夏冬のボーナスも給料一月分だから、年間だと400万円余りの差が出てくる。懸賞金をもらえるのも幕内のみで、十両では懸賞がかからない。また場所入りの時、自分の四股名を染め抜いた“染め抜き”の着物を着られるのも幕内力士のみに許されること。控えの座布団も、自分の四股名を入れたマイ座布団を使えるのは幕内のみで、十両は用意された同じ座布団に座る。 稽古始め。名古屋場所らしからぬ涼しい稽古始め。
平成24年6月27日
幕下41枚目と自己最高位(36枚目)近くまで番付を戻した朝天舞、名古屋入りしてからも自主トレ、稽古と本場所に向け余念がない。その朝天舞、どちらかというと倹約家(カタイとも言うが)で有名だが、夕方珍しく「ジュースおごるよ!」と部屋の前にある自販機の前に立った。近くにいた若い衆、「ごっちゃんでーす」と、ここぞとばかりに喜び勇んで自販機の前に並んだ。さらにチャンコ場の奥にいた力士達も群がり出てきて自販機には長蛇の列。中には再び列に並び直すちゃっかり者も。はじめ誇らしげにしていた朝天舞の顔にだんだん陰りが見えたような気がしたのは、夕暮れのせいだけでもなさそうな“事件”であった。
平成24年6月28日
「押さば押せ 引かば押せ」は相撲の極意である。新弟子はひたすら押しを稽古させられる。「押し」は単純そうにみえるが、基本なだけに難しく深い。押してもビクとも動かない相手を押しつづけるのは苦しい。「押しは忍しに通ずる」ともいう。今年3月入門の朝剣、いまはひたすら動かない兄弟子にぶつかり、押す力を磨く毎日。ひたすら押すだけの稽古が、忍す心を、押す技術を、体の押す力を鍛える。
平成24年6月29日
諸説あるようだが、「押さば押せ・・・」は、「押すに手なし 押さば忍(お)せ 引かば押せ おして勝つは相撲の極意」という。「押し」と「忍し」、身体的精神的両面から相撲の極意をあらわしている言葉である。空手でも「押忍」(オス)というから武道的極意でもあろう。「押す」には全身を使うことが大切になる。全身を使うためには腰を割らなければならない。「腰を割る」ことで「忍(お)す」ための「肚(ハラ)」もできる。新弟子朝剣、押すときに右膝が中に入ってしまい、つま先立ちになってしまう(多くの力士に見られることだが)。押せなく、忍せない。
平成24年6月30日
つま先立ちは、なぜダメなのだろう。つま先立ちで押すとき、つま先は前に向く。前に向けなければ前に押せない。つま先を前に向けると自然に膝も前を向く。膝が開かず中に入った構えになる。膝が中に入った構えは、横に捻られると、ひとたまりもない。簡単に転んでしまう。また骨格の構造的にも、つま先には細い骨と薄い筋肉や靭帯しかなく、大きなパワーをだすような構造にはなっていない。